天神 聖様
今年MH祭デビュー。以前「Wonder Castle」及び
「キタネコCP応援団」の管理人様として鬼猫ファンに
多くの感動と喜びを与えてくださった。今回はオリジ
ナルで待望のホラー作品を提供してくださった。読み
応えのある手に汗握るストーリーを楽しんで頂きたい。
因果
‐夢か現か‐
~狐色(きつねいろ)~
――その日の夜も、彼は追われていた。
明かりも届かぬくらいに闇に落ちた林の中を、彼は必死に駆けていた。その表情は真剣且つ必死で、余裕さなど微塵もない。後方がかなり気になるのか、何度も後ろを振り返っている。汗で額にこびりつく髪もお構いなしだ。
どこまで続いているのか知れない暗がりが、彼の恐怖心を更に増強させる。
そして恐怖に逃げ惑う者をあざ笑うかのように、一つの気配が彼を追い詰めていく。
彼の名は、三ツ島和弥(みつしまかずや)。公立高校に通うごく普通の高校生で、端正な顔立ちをしている少年である。運動は苦手の部類に入るが反面頭脳明晰で、しかし何故か密教や仏教に興味があるという少々風変わりな少年でもあった。興味の度合いというと、密教のルーツを知りたくて、わざわざ海外にまで足を運んだことがあるくらいだ。
それがどういう因縁か、或いはこの興味が引き込んだ所以か。いつの頃からか彼は毎日のように、得体の知れない『影』に追われる身となっていた。
目を閉じるたびに訪れる、いたく言い難い恐怖。それは、毎夜予告なしにやってきた。
『影』は、最初はただの気配のみであった。しかし日を追うごとに『影』は実体を得ていき、圧倒的な力を以て支配するかのようにプレッシャーが膨らみ。そして、次第に且つ確実に彼に近づいていた。
気配だけだったものがいつしかモヤのような姿になり、モヤでなくなればオーロラのようにユラユラと揺れる物体になる。最近では、薄い焦げ茶色――いわゆる狐色の、揺ら揺らと炎のように揺れる物体に変わっていた。
しかも、『影』が持つプレッシャーが膨らむことに比例するように、その実体もその大きさを増していった。
全てを飲み込まんばかりに膨らみ続ける、その存在感。その『影』の正体については和弥にはまだ見当がついていなかったが、これだけははっきりと言える。
――その『影』は、決して自分の味方ではない。
それが証拠に、彼を追う『影』が持つ気配には「大元(おおもと)」以外に明らかな「殺気」と「邪心」しかないことを、彼は感づいていた。諦めの心を持ってしまった時点で、己の全てが『影』に負けてしまうことも想像に難くなかった。
この『影』に、決して飲みこまれてはいけない。飲み込まれてはいけない!
和弥は息が完全に切れていることも忘れ、ただひたすら『影』から逃げ切ろうと今夜も必死に走る。
そして――その『影』はこの夜、ついに和弥の前にその姿を現した。
「な…何なんだ、コレ…っ……?!」
『影』の正体を目の当たりにした和弥は、思わず絶句した。驚愕と戦きで足も止まり、思わずその場に立ち尽くす。
『影』の大元の気配が、何かの「生物」の気配だということは、和弥にも分かっていた。否、更に絞り込んで人間以外の「動物」の気配だろうか。大きさも、おそらく和弥の何百倍はあるだろう。例えるならば、ビル10階建てもくだらないといったところか。
その大きさにも驚愕すべきではあるが、それよりも驚くべきことは、『影』が持つその容姿であった。
頭上で三角に尖った耳、面長な顔、突き出た口、そして全体に広がる獣のような狐色の体毛。それは、よく見知った動物の容姿に他ならない。
「き、狐の化け物…っ……??!」
しかし、これは……!
確かに見知った動物であるはずなのに、この禍々しさは何なのか。いや、禍々しさだけではない。そもそもこれほど巨大な狐など、この世に存在するはずがない。
信じられない趣で凝視する和弥に、化け物はまるで茶色い大波のように大きく両腕を振りかぶると、血に飢えたかのような真っ赤な眼をギロリと向けてきた。
化け物が和弥に照準を定めたのだと、彼はすぐに感づいた。このままでは、きっとこの狐にやられてしまうだろう。だが、逃げようともその真っ赤な瞳に釘付けにされ、金縛りに遭ったかのように身動きが取れない。
和弥は細かに首を振りながら、うわ言のように言葉を洩らした。
「…いや。これは夢だ、夢なんだ……。ここでこの化け物にやられたって、きっと死にはしないさ……」
和弥は声を強張らせながらも、己を奮い立たせるために敢えて不敵に笑ってみせた。
――そう。彼はこれが全て「夢」であることを知っていた。あの『影』に追われるのは、いつも決まって同じ林の中。しかも夜中の、眠った一瞬でこの林に来れるはずなどない。
何故なら。彼はこの林のことを知っているからだ。
およそ一ヶ月前、彼は密教のある伝説を知りたくて、インドに訪れたことがあった。そこで和弥は、「シャマシャナの林」というところに立ち寄った。しかし現地の人の話に寄ればこの林はいわくがありその身に害することがあるやもしれないので、決して立ち入るなと言われたのだ。しかし和弥は好奇心に溺れ、現地の人の忠告を無視して林に立ち入ってしまった。
和弥がこの夢を見始めたのは、このときからだった。しかも、その時に訪れた林に、この夢の林が酷似しているのだ。
「もしかして……あの時の祟りが、今になって来ているのか……?」
和弥はこのとき初めて、己の軽率さを思い切り後悔した。もしあのとき現地の人が言うようにあの林に立ち入らなければ、このような恐怖に満ちた夢を連夜見ることはなかったかもしれないのだ。
和弥は自嘲した。いくら好奇心が沸いていたとはいえ、現地の人の言葉を無視してまで立ち入ったのは、やりすぎだったか。
その一瞬、脱力した和弥にスキが生じてしまった。そして化け物も、そのスキを見逃してはくれなかった。
声を上げる間もなく。狐色の化け物が、和弥の片腕に喰いついてきたのである!
「うわぁぁぁぁぁっっ!!」
闇に包まれた林の中に、和弥の絶叫が響き渡った。喰いつかれた右腕は化け物の中に消え、放心状態の和弥は己の右腕に起きた光景に顔面蒼白になった。
「あ……あああああああああっっっ!!」
途端に、再び和弥の絶叫が響く。右腕を抱え込み、和弥はその場に崩れ落ちた。
夢であるはずなのに、何故こうも全てがリアルなのか。失った片腕の感覚、この痛み。しかし、食いちぎられた箇所から血が流れていないことが、彼にこの空間は「夢」なのだと証明してくれている。
身体をガタガタを大きく震わせ、和弥は恐怖に満ちた眼差しを狐の化け物に向けた。狐色の化け物は不気味に喉を鳴らしつつ、更に和弥の下へと迫ってくる。
(な、何で……夢なのに、何でこんな実際に経験しているような錯覚に陥ってるんだ、僕は……?!)
痛み、感覚、視覚などだけではない。この林の臨場感も、以前に立ち寄った「シャマシャナの林」で感じたものと同一なのだ。
もしかしたらこれは、夢などではないのかもしれない。夢と思っているものが、何かしらで生じた空間の歪みに彼が迷い込んでしまった現実の世界なのかもしれない。
(僕は……僕は一体、どうしたら良いんだ……?!)
それでもこれは夢なのだと、和弥は必死に自分に言い聞かせた。現実ならば、己の右腕から血が流れ落ちないわけがない。現実であるわけがない。しかし……それでも、先ほどの己の問いに関する答えは見つからない。
僕はこれからも、夢という精神界の中でこの狐の化け物に襲われ続けていくのか――?
(……)
和弥が不意に唇の端を軽く持ち上げた。しかしそれは先ほど浮かべた自嘲の笑いではなく…何かを決心づけたような笑みであった。
今、分かった。答えなど、見つかりっこなかったのだ。
自分は今、己が経験していることから目を背けようとしていた。ただただ、恐怖に支配されるがまま今まで逃げ回っていた。
気丈にならなければ、それこそ狐に精神で負けてしまう。
恐怖と不安に押しつぶされそうになりながらも、それでも和弥は気丈に狐の化け物に向き直った。和弥は歯を食いしばり、強い決意を持って狐の化け物と対峙する。これが己の蒔いた種ならば、己の手で摘み取るしかないのだ。
「これが僕の業なら、僕はこれらからもう目を背けない!もうこんな悪夢、今日で終わりにしてやる!!」
和弥が言い終わるのを待っていたかのように、瞬時に狐特有の薄い焦げ茶の色が、和弥の目前一杯に広がった。
刹那。そのまま狐色の大きな波に飲まれそうになった和弥の身体が、強力な力によって引き寄せられ、波に飲まれる難を逃れたのである。
和弥はハッとし、自分を引き寄せた「それ」を見た。
それは、にこやかな笑顔を浮かべた、老人であった。
一度も逢ったことがないはずの老人。しかし、何故かどこかで逢ったことがあるような気がするのは気のせいだろうか。
口元には形の良い髭。安らぎを与えてくれそうな、ふくよかな顔と体つき。耳たぶは大きく垂れ下がり、その足には袴を履き、その頭には特徴的な頭巾、両手には小槌と大きな袋を所持している。
その姿は、まるで……。
「あ…あんたは……?」
和弥が目をパチクリさせてそう問うと、老人はにこりと笑ってみせた。
「なに、名を語るほどの者ではない。それより、腕を片方やられてしまったようじゃのう。哀れなことじゃ」
老人がそこまで答えた途端、再び狐色の化け物が二人目掛けて襲い掛かってきた。
「うわっ!!」
和弥は思わず顔を背けたが、老人は少しも怯むことなく手にした荷物を足元に降ろすと、和弥を庇いながら己が両手を目前に翳した。
九字の刀印を切り、内縛印(ないばくいん)、剣印(けんいん)、刀印(とういん)、転法輪印(てんぽうりんいん)、外五鈷印(げごこいん)、諸天救勅印(しょてんきゅうちょくいん)、外縛印(げばくいん)。そして最後に真言を唱える。
するとどうだろう。老人が放った術が狐の化け物にまとわりつき、化け物を苦しめ始めたではないか!
和弥があれほど恐怖に戦いた相手を、一時的にもあっさりと封じてしまった老人。和弥はあんぐりと口を空け、呆然とその様子を見つめることしかできなかった。
「ふう…これで暫くは大丈夫なはずじゃ。ちょっとばかり、『不動金縛りの法』を使ってやったのじゃよ。本来は悪霊などを相手に使うのじゃが、今回は特別に…ということでな」
老人はそれだけ言うと、安堵したように軽く溜息をついた。
突然の老人の登場と再び狐色の化け物に襲われた余韻で、和弥はまだ緊迫した空気の中で呆然としていたが、ようやく息を整えるとおっかなびっくり老人に声を掛けた。
「あんた…どうして僕を助けてくれたんだ?」
「そうじゃな……おぬしが強い意志で、あの狐と立ち合うたから、かのう?」
和弥の再びの問いに、またも老人はにこやかにそう答えた。
僕が強い意志であの化け物に立ち向かったから、この人が現れた?
考えようにも、情報があまりに少なすぎる。和弥はますます意味が分からないというような表情で、老人を怪訝そうに見つめた。
「それじゃあ……あの狐のような化け物、あんた何か知ってるのか?」
その和弥の問いに対する老人の答えは、彼にとってあまりに予想外なものであった。
「あれは、稲荷じゃ」
「稲荷?!」
「いや…稲荷というより、稲荷の『眷属(けんぞく)』というところかの。そしておそらく、あやつはおぬしを捕らえるために『稲荷』が遣わした者じゃろう」
「僕を捕らえるって……『稲荷』って、良い仏様ではなかったのか?!」
老人の答えに、信じられないと言いたげな表情で和弥は思わず目を見張った。
密教や仏教をかじっている和弥は、言わずもがなその名を知っている。『稲荷』とは元々穀物の神であり、一般的に商売繁盛の神様としても知られている。狐はその稲荷神の使いとして広く知られており、現在でも赤い鳥居の神社でその姿を見かけることができる。
あの化け物が狐の容姿をしていることも、今の説明ならば和弥にも頷けた。
しかし――だからこそ、その稲荷が人間を襲おうとするとは……しかもよりによって、自分を捕らえにきたとは……俄かにも信じがたいことだ。和弥が驚くのも無理はない。
「しかし…何だってその稲荷様が、僕を捕らえようなんて……」
少々いじけたように顔を額づける和弥を老人は横目で流し見し、とぼけるような様子で言葉を切り出した。
「おぬし……もしや『シャマシャナの林』に行かなかったかね?」
「えっ?どうしてそのことあんたが知ってるんだ?!」
思わぬ名称を切り出されたことで、和弥は腕の痛みもすっかり忘れ、すっとんきょうな声で老人に詰め寄った。
和弥の反応を知ってか知らずか、老人はまるで何事も見通しているかのような趣で綺麗に揃えられた髭を捻りながら、言葉を繋げた。
「『シャマシャナの林』というのは、稲荷神の正式名である『茶吉尼天(だきにてん)』に縁がある場所でな。悪い意味でいわくがある場所なのじゃよ。おそらくそこで、おぬしは茶吉尼天と知らずと縁を結んでしまったのじゃろうな」
「茶吉尼天、ってまさか……」
和弥もその神の名は知っていた。一般的に祭られている茶吉尼天は女性として描かれ、稲荷信仰と同様に穀物の神として崇められている。しかしそれは神道よりの説で、密教や仏教では違ったはずなのだが……今の和弥には、それがどうしても思い出せなかった。
「はるか昔、その林は茶吉尼天と人間の『取引』の場所として有名じゃった。『取引』により、人間は茶吉尼天より不思議な力を与えられると信じられていた。ゆえ茶吉尼天は、その場に立ち入ったおぬしも『取引』をしにやってきた人間と思ったに違いない。しかしおぬしは、『取引』をせずに林を立ち去ってしまった。……まあ仏や神にとっては、信仰こそが力の源じゃからな。おそらく、久方ぶりに林を訪れた人間であるおぬしが茶吉尼天に興味を持たなかったことで、茶吉尼天は現在の人間から己に対する信仰心がなくなったとでも考えたのじゃろう」
「じゃあ、茶吉尼天は……それで僕に対して罰を与えようとでもしていると……?」
引きつった表情で洩らした和弥の言葉に、老人も軽く頷き返した。
「まあ、本人ではないゆえ確証は持てぬが……おそらく、な」
老人がそこまで言った時だった。
二人の後方で大きな爆発音のような音が響いたかと思うと、突然地割れが起きるのではないかと思えるくらいな大地震が起き始めたではないか!
「な、何だ?!」
あまりに突然のことで、和弥が思わず仰天した声を上げた。しかし、老人はあくまで平静を装ったままチラリと後方を盗み見する。まるでこの緊急事態が起きうることを、予め理解していたかのように。
そう。老人は先刻狐色の化け物に己が仕掛けた術が解けそうになっていることを、すぐに理解したのである。
狐色の化け物は老人の施した術を解き放そうともがきながらも、ますますその血に飢えたような赤い目を二人に向け、その山のように巨大な身体をもって襲い掛からんばかりに暴れだした。
「あ、あいつ……また……!」
「ほう……さすがは『稲荷神』茶吉尼天の眷属じゃ。ワシの術でも、そう簡単には封じられたままになってはくれぬか」
老人は一言そう呟き、和弥に再び視線を向けると、先刻とは打って変わった真剣な表情で和弥に語りかけた。
「少年よ。ワシがこやつを足止めをしている隙に、これを持って早々にここを立ち去るがよい」
老人はそう言って、一枚の紙切れを和弥に差し出してきたのであった。
それは、一枚の護符であった。
和弥は霊能力を持ってはいなかったが、この護符が持つ霊力が半端なものではないことは和弥にも身に染みて分かったような気がした。
「?! で、でも……あんたはどうするんだ?! いくらあんたでも、あんなのにやられちゃ一溜まりもないに決まってる!」
己のために犠牲になろうとしていることが分かっているだけに、和弥はどうしても老人を見捨てることができない。
しかし老人はそれでも温かい笑みを浮かべると、和弥に諭すように言ったのだった。
「ワシのことならば、大丈夫じゃ。そもそも……『あやつと同じ因縁を持った』このワシでないと、あやつは倒せぬのじゃよ」
『同じ因縁』……和弥はその言葉が、何故か心に引っ掛かった。
「で、でも…っ……!」
「さあ!早く行くのじゃ!!!」
それでも躊躇する和弥を、彼に背を向けたままの老人の声が叱咤する。
老人の声が含んだ気迫と迫力に押され、和弥はゆっくりと振り返った。そうしてただ小さく背中越しに一言「さようなら…」とだけ告げると、一目散に駆け出したのだった。
後方に眼を遣るたびに、老人の背中がだんだんと小さくなっていく。離れたところから見ると、老人と化け物の大きさがどれほどの雲泥の差か、よく分かる。老人が化け物に敵わないだろうことは、一目瞭然だった。
和弥が化け物から大きく離れたことを確かめたらしき老人は、ゆっくりながら大きくその両腕を広げると、狐色の巨体に覆い被されるように飲み込まれていった。
その情景を目の当たりにした和弥は眼を見開き、思わず足を止めかけた。しかし身を挺して彼を逃がしてくれた老人のことを考えると、和弥にはここで立ち止まることは許されなかった。和弥は己の無力さと老人を見捨ててしまった悔しさからか唇をきつく噛み締めると、再び踵を返し更にその足に加速を付けた。
血を流すことは今だないが、失った腕の感覚はまだ和弥を苦しめているようで、時折痛みで顔をしかめる。しかし、それでも和弥は立ち止まらなかった。
……否、立ち止まれなかった。
――もう、何刻走っただろう。駆け続けた足にも限界が訪れ、和弥は枯れ枝に足を取られ躓き倒れた。だが、老人が我が命を化け物に差し出したのだ。さすがの化け物も、もう和弥を追っては来ないだろう。
しかし……ここで和弥に新たな試練が待ち受けていた。
かろうじて化け物から逃げ出したは良いが、今の和弥はこの林を抜ける術を知らない。この林を抜けない限りこの悪夢からも逃げ出せないことは明白である。
いつもはいつの間にか林の出口らしい場所にたどり着いて、難を逃れていた。しかし、今夜の夢は違う。実際に自分は夢の中で、あのおぞましい化け物に襲われているのだ。
まるで、あの化け物に会ったことで全ての逃げ道を塞がれてしまったように。
和弥は肩で大きく息をしながら立ち上がり、そのまま樹にもたれ掛った。あの老人には悪いが、この林を抜けない限りこの悪夢は永久に続くだろう。例えあの化け物から逃げおおすことができても、だ。
次第に和弥の心の中に、「諦め」の言葉が浮かび上がってきた。
その時。突然手にした護符が光りだしたかと思うと、突如天から光が降り注ぎ、何と目前に光の橋が現れたではないか!
和弥はハッとして、突然目前に現れた光の橋を凝視した。
「…!げ、外界だ……!」
それは和弥にとって、まさに希望の一筋の光であった。長きに渡る苦しみから解き放されたかのように、和弥の顔にようやく笑みが零れた。痛みに疼いていたはずの失った片腕も、まるで和弥の心からの喜びを祝うかのように、いつの間にか痛みが和らいでいる。
軽く瞳を閉じ再び護符を握り締め、目の前に広がる光の中に和弥は思い切り飛び込んだ。
同時に、和弥の意識も次第に薄れていった――。
その日。和弥は眩しいばかりに部屋に差し込む朝日により目を覚ました。
目を開けた先に現れたのは、見慣れた天井に、見慣れた数枚のアイドルのポスター。周りを見渡せば、大ファンのコミックのほか参考書やCDやゲームソフト、そして密・仏教系の書籍がぎっちりと並んだ本棚も目に入った。
「ここは……僕の部屋、か……?」
時計に眼を遣れば、短針は5時を差している。和弥は布団の中で、しばらく呆然とした趣のまま寝そべった。そして、不意に自らの腕に眼を遣る。途端に、和弥は眼を見開いて布団から勢いよく飛び起きたのだった。
夢の中で失ったはずの片腕は、ちゃんとその場に存在していた。ちぎれたような跡もない。試しに勢いよく腕を回してみたが、違和感など無論ない。
和弥の腕は夢の中で奪われただけで、現実には腕を失っていなかったのだ。
しかも。狐の化け物に襲われたこと、腕をもぎ取られたこと、老人との会話の内容――夢の中で起こっていたことを、実際に体験したかのように全て鮮明に覚えているのである。
あの出来事は本当に、全て夢だったのか……?
(しかし……)
眠ってもなお溜まりに溜まっている疲労感と、体中に掻いた大量の汗が、昨夜のことがただの夢ではなかったことを告げている。
まだ頭の中が混乱しているらしく、和弥は片手を額に当て、大きな溜息をついた。
――と。何か紙切れのようなものが、布団の上に置いた和弥の手の下敷きになり、カサリと乾いた音を立てた。和弥は何気なく、それを拾い上げた。
「……!!!」
途端、和弥はギョッとした。それは和弥が老人から託され、和弥を救ってくれた、あの護符であった。
夢の中で受け取ったときは綺麗な状態であったのに、ところどころ擦り切れ、ボロボロな状態になっている。しかし、問題はそれだけではない。
夢の中でもらったはずの護符が、こうして現(うつつ)の中に存在しているということは、一体どういうことなのだろうか?
そういえば、あの老人は気になることを言っていた。『自分と茶吉尼天は、同じ因縁を持った者』――と。
和弥は乱暴に掛け布団を跳ね除けると本棚に向かった。密教や仏教に関する本が並んでいる箇所を物色し、すぐさま中身に目を通す。
そうして初めて和弥は、老人が最後に言った言葉の意味がようやく分かったのだった。
「茶吉尼天」は、そもそものインドでは人間の心臓や肝を食べ生き血を啜るという夜叉神で、大日如来がそのような茶吉尼天を懲らしめるために、忿怒(ふんぬ)の形相をした姿に変え改心させたという。
その名は――『大黒天』。
その忿怒の神は、いつしか神道と仏教が合わさった形の神となり。現在一般的に知られている「福の神」大黒天となったのは、室町時代に入ってかららしい。
つまり、あの時老人が助けてくれなかったら、或いは狐色の化け物に自分が完全に飲み込まれていたら……それが例え夢の中の出来事であったとしても、血肉だけでなく魂をも奪われていたことになり、結果和弥は命を落としていたということになる。
夢の中で片腕を奪われてもそれが夢の中だけで終わっていたのは、きっとこの護符のお蔭であろう。
もしやこの護符は、狐色のおぞましい巨体から守るため、現実にまで和弥を導いてくれたとでも言うのだろうか。
行き着いた真実を知った和弥は、自分が今まで置かれていた状況を思い出し、その身に戦慄が走った。
和弥を襲ったのは、前身の「茶吉尼天」。そして、救ってくれたのは後身の「大黒天」。『己』を打ち破ることは、『己』にしかできない。きっとあの老人は、そのことを言っていたのだろう。
つまり、あの老人は飲み込まれたわけではなく、寧ろあの狐色の巨体を飲み込んだわけであり……和弥は『大黒天』に襲われ、そして、『大黒天』に助けられたのだ。
あれから、あの老人と狐の化け物、そして和弥自身の因縁がどうなったのかは定かではない。
しかし、あの日以来和弥は、あのおぞましく恐怖の象徴でしかなかった狐色の化け物に追われる夢を見なくなっていた。
それはあの老人が夢の中で彼を助け、悪夢に侵食された彼の全ての苦しみを浄化してくれたのだと、和弥は信じている。
現にあの化け物に飲み込まれる瞬間、彼は和弥に対して笑みを浮かべていた。それは己がした行動に、後悔していないという顕れではないか。
和弥はしばし瞳を閉じ軽く笑みを浮かべると、心の中に深い感謝と敬意を込め、清々しく澄み渡った天に向かって敬礼した。
そのような和弥の前途を祝福するかのように、太陽が雲一つない大空の中で眩く光り輝いていた――。
-fin-
和弥さんと一緒に逃げ、そうして和弥さんと一緒に立ち向かい、最後に和弥さんと一緒に夢から覚めさせて頂きました!!///
実はこのブログの背景、一番大きな蝶が狐色だったりするんですが、偶然の一致ながらすごいっ……!笑
聖様の十八番である鬼猫でも見たかったのですが、むしろオリジナル作品が拝見できて本当に嬉しかったです!
聖様、すばらしいトリを本当に有り難うございました!
まさかここで天神様の作品がもういちど拝める日が来るなんてと、とても楽しみにしていました!
狐色から構想が広がり、まさかの大黒天ですか! ホラーなのに教化する何かが含まれているように感じるのは私だけでしょうか。
お話が進むにつれての謎解き要素も引きつけられました~。
有難うございました~~~!
ここだけの話、実は構想時点では和弥一人称の和弥視点でストーリーを進めていこうかとも思っていたのです。しかし、主人公と共にストーリーや恐怖感(?)を味わっていただけた方が面白いのではないかと思い、今回は敢えて第三者視点で書いてみました。
それ故読まれた皆様の反応もとても怖かったのですが、矢野さんに和弥と同じ臨場感を味わっていただけて、且つ楽しんで頂けたのかと思うと、とても嬉しく存じます///
もしまた参加させていただける機会がございましたら、その時は是非キタネコでも挑戦してみたいと思います♪
最後になりましたが。この度は本当に嬉しいご感想をありがとうございました。しかも、こちらこそこんな拙い作品をトリにしていただきまして、重ねて御礼申し上げます。
そしてこの2週間、本当に心からMH祭を楽しませていただきました。皆様の特上特盛すぎる作品で、はちきれんばかりに腹一杯です♪矢野さん、そして参加者の皆様、誠にお疲れ様でした&ありがとうございました!
それでは、乱文失礼いたしました。天神聖でした。
とにかくも、モノカキの達人である大和さんにも楽しんでいただけたようで、こちらこそとても嬉しく存じます///
構想に関しては、まず思いついたのが「稲荷」でした。やはり題材が「狐色」なので、狐が真っ先に脳裏に浮かんだと言うか…。元々神話や仏教などに興味があったので、ならばお稲荷さんメインで書いてみようかと。
そして同一神のヒントになったのが、実はドラ○ンボ○ルでした。「ピ○コロさんと神様のように、和弥(主人公)に関わる善と悪が同一人物だったら面白いかな」というところから、更に構想が膨らみました。まあ、お稲荷さんや大黒天にもそれに通ずる箇所があったからこそできた構想なのですが;
なので今回の結末は、自分でも驚いています(オイ)。
大和さんが「教化する何かが含まれている」と感じて頂けたのは、天神には全くの予想外でした。それだけ作品を深く掘り下げ考察して読んでくださったのだなと思うと、嬉しく思います。本当にありがとうございました///
最後になりましたが。本当に嬉しいという言葉だけでは失礼なくらいのコメントを頂きまして、誠にありがとうございます。
大和さんの作品も、毎回楽しみに拝見させていただいております。今回の「深緋」も現代社会の中でこそ考えさせられる箇所が散りばめられており、決して他人事では済まされない、人間誰でも少なからず持っている心の闇を見事に映し出した作品だなと感心しながら読ませていただきました。こちらこそ素晴らしい作品を拝見させていただき、ありがとうございました///
それでは、乱文失礼いたしました。天神聖でした。
読み始めから終わるまで、終始ドキドキゾワゾワしっぱなしでした。
そして、走りました一緒に。
まさか襲ってくるのも、手を差し伸べてくれたのも大黒様とは…。この構想力にもう凄いとしか言葉が出ません。
とても楽しませて頂きましたvvありがとうございましたv
天神の作品を最後まで読んでいただき、且つこんなに嬉しいコメントまで残してくださり……もう感涙で目が雲って前が見えません(嬉涙);
実はホラー作品は初めてだったので中々勝手が分からず、「どうしたら皆様の興味を引くことが出来るか」「どうしたら読み応えがあるホラーに仕上がるか」などと悩みながら仕上げた作品だったのです。
ゆえ、珠歌さんに主人公と共に走ったという臨場感までしっかりと感じ取っていただき、更には始終ドキドキゾワゾワしっぱなしだったというご感想を頂き、本当にもう嬉しい限りです///
「狐色」という題材で真っ先に思い立ったのが「稲荷」だったのですが、ただの「稲荷」で終わるのも有りがちで甘いなと思いまして……更に「稲荷」を掘り下げた結果、「茶吉尼天=大黒天」という同一神に行き着いたのですよ。
俄仕込みな構想だったのですが、それでもこんなに嬉しいお褒めの言葉を頂き、もう御礼の言葉も言いようがございません///改めて、こちらこそありがとうございました!
そして。この場にて申し訳ないのですが、珠歌さんの作品「マリーゴールド」、しっかり拝見させていただきました☆
その川に落ちたら、決して助からない。その場に咲いていないはずの花を、何故か握りしめていた少女。「奇跡は、絶対に起こらないから『奇跡』って言うんだよ」という言葉を、ありありと思い浮かべました。そして、マリーゴールドの少女と主人公の少女の心からの信頼と友情も、すごく心に打たれました。表面では忘れてしまっていても、「真の友達」は決して忘れないものなのですよね。ホラーながら、温かみを感じた作品でした。こちらこそ素晴らしい作品を拝見させていただきありがとうございました!
最後になりましたが。改めまして本当に嬉しいコメントを頂き、誠にありがとうございました!! 乱文失礼いたしました。天神聖でした。