アトリエの空気は独特だ。
クーラーも無いのにひんやりした肌寒さに、油絵の具などの様々な画材から放たれる匂い……滅多に磨かれる事のない曇った窓から、辛うじて差し込む陽光が埃を反射する。がらん、と中心に何も置いてないから、足音がよく響く。
隅々に置かれた胸像や、卒業生達の作品が、埃をかぶったビニル袋の向こう側でじっとこちらを眺めていた。
その視線から逃れるようにして、壁に立てかけられている薄汚れたイーゼルを運ぶ。丸椅子をその前に用意して、モティーフ選びに取りかかった。今日は途中まで描いていた牛骨を仕上げる。
ひたひたひた。
がたがたがた。
ごそごそごそ。
以前とほとんど変わらぬ状態に設置して、絵の具をイーゼルの隣に置いた。あちこちに絵の具が飛び散ったイーゼルには、訳の分からない落書きも見える。初めて見た時は友人達と笑ってそれを眺めていたものだが、今となっては周りの飛び散った絵の具と同じような価値しか無い。
だと言うのに、ふと視線をイーゼルの脚に向けると、小さな文字が目に入った。その鉛筆で書かれた文字を、自分は心の中で読み上げた。
―――白神 真。
几帳面そうなその文字は、まるでイーゼルを自分の物だと……さり気なく主張しているかの様だった。
確か卒業生が寄付したイーゼルも置いてある。その一つだろう。
そのまま今度は描きかけのカンバスを取りに行く。
ひたひたひた。
がたがたがた。
壁に立てかけて、乾燥させていた自分の作品。
他の生徒達の作品も、壁を占領するように立てかけられている。
ずらした他の生徒の作品を元に戻した時。
からんからんからん。
小さな音が足下に響いた。
見ると、絵筆が一本転がっている。誰かが落としたのだろう。無視しようとした自分の目に、この時絵筆に掘られた名前が飛び込んだ。
―――白神 真。
もしかして昨日アトリエにやってきたのか。落とし物はいつか誰か拾うから、そのまま放置する。それがここでの常だった。
自分の作品をそのままイーゼルに運ぶ。
そしてイーゼルに作品を設置して、椅子に腰掛けた。
床に置いていた絵の具に手を伸ばし、紙パレット、絵筆、油つぼ、オイル、そして……
がさがさがさ。
ごそごそごそ。
画材を用意して、オイルの蓋を開けた拍子に、その蓋が手から滑って転がった。
ころころころ。
オイルを慎重に床に置いて、蓋を取りに小走り。
そして過去の生徒作品がたくさん積み重ねられた棚の隅に、転がった蓋を取りに行ったその時。
一枚の作品が、目に入った。
それはたくさんの作品の間に挟まっていたが、何故かそれが目に入った。
目に入って、そして何となくそれを引っこ抜く。
端の方に見えたのは、このアトリエの風景。だからきっと、過去の卒業生が描いた、裸婦像か静物画だと思うのだが……
ようやっと引っこ抜いて、それを見た時、思わず首を傾げた。
確かにアトリエの風景だ。
ちょうど、部屋の隅から全体を見渡したような、そんな絵。今自分が置いてあるイーゼルより、もっと後ろから見た時の光景。すぐに解る。だってもう使い慣れたアトリエだから。
けれど。
肝心の、モティーフが描かれている場所が……空白だった。
白かった。
空白ではない。
何度も何度も、シルバーホワイトと、チタニウムホワイトと、ジンクホワイト全てを練り込んで、そして重ねた様な白。でこぼことして、既に立体になりかけている白。青白い影が、奇妙な模様のようになって浮き出ている。
カンバスをひっくり返して、名前を見た。
名前を見て、そして微かに目を見開く。
―――白神 真。
几帳面なあの文字が、カンバスの裏に小さく書かれていた。
何かを考えた訳ではない。
ただ何かを感じた。
瞬間。
ぺたぺたぺた。
不意に足音が後ろから近づいてきて、ハッと振り向く。
反射的に振り向く。
その視線の先に―――
「おう、福田。頑張ってるな」
入り口から手を振る先生の姿があって、思わずほっと胸をなで下ろした。
「何だ何だ? 幽霊でも見たような顔して。まあ古いだけが自慢の様な学校だからな。出てきても何らおかしくないが……」
「止めてくださいよ、先生」
脅すように言う先生に、自分は手の中のカンバスを見せる。
「先生、この人……知ってます?」
「ん? ……いや、俺の生徒じゃないな。安部先生辺りの生徒じゃないか?」
しっかしまた……と先生は苦笑を漏らしてカンバスを見た。
「ひっでー潰し方だな。もっとやり方があるだろうに」
がりがり、と指先で白をひっかく。
ぽろぽろ、と白が落ちる。
端の方に、白が重なった……ぼんやりした色が現れる。
「逆にどんだけ酷い作品ができあがったのか見たくなるな。しかし周りの色遣いと言い、結構良い出来だと思うんだがな……」
モティーフがダメだったか。
先生はカンバスを渡しながら肩を竦めた。
「ま、人それぞれだな。お前は失敗したら俺に言えよ。こんな風に潰すんじゃねーぞ」
「はい」
すたすたすた、と手を振りながら先生はアトリエを出て行く。
―――先生はスリッパを履いていた。
それを見届けた自分は、カンバスに向き直る。
床にそれを置いて、ペンチングナイフを取り出した。
後はもう、無心で引っ掻く。
がりがりがり、と引っ掻く。
ごりごりごり、と引っ掻く。
白を粉々に取り去っていく。
重ねられた白を、懸命に取り払っていく。
がりがりがり。
ごりごりごり。
一体どれだけの時間、そうしていたのか解らない。
気が付くと、既に室内は薄暗くなっていた。
カンバスに散らばる白い粉を手で払う。
下の絵が、ようやっと現れる。隠されていた絵が、白い埃を纏った様にして現れる。
床に四つんばいになって、何かを必死に凝視する女がいる。
アトリエの真ん中で、床に両手両膝を付いて、何かを見つめる女がいる。
コレが自分だ、と気付くのに大して時間はかからなかった。問題はもう一つある。
その後ろに描かれた……一人の男性。
彼は、彼女の見ているカンバスではなく……
―――間違いなく、彼女をのぞき込むようにして、その後ろに立っていた。
……そして自分はまだ……振り返る勇気を持てずにいる。
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こぼしてもいけないけれど、
ずっと持っていてもいけないよ。
そして、振り向く事が怖いって思ってしまうラストの凄味っ!
名前の白、空間の白、塗りつぶされた白。白がこんなにじわじわと来る怖さを持っていた事を改めて思い感じました。
2週間おつかれさまです。
最後にふさわしい素晴らしい作品、有難うございました!!
今回は白黒という非常に楽な色を選ばせて頂いたので、今度はちゃんと難しい色に挑戦したいと思いますっ! 皆様の苦労も分かる為にっっ=3
こちらこそ、嬉しいメッセージ本当に有り難うございました!!///
最後までゾクゾク読み進めてそう呟きました。
白色の怖さ、実感です。
塗りつぶされた白の下に描かれていた光景の意味は…考えるだけで怖いです。
ありがとうございましたv
2週間お疲れ様です。素敵な企画、とても楽しませて頂きましたvv
珠歌様のマリーゴールドは本当に「くぁっ…こんなホラー書きてぇ!」と地団駄を踏んだものですが(笑)その珠歌様にこう言って頂けるとちょっと鼻が高くなっちゃいますっ!=3(へし折って良いよ!笑)
こちらこそ、2週間という短い間でしたが、アップの度に支えてくださり本当に有り難うございました! 来年もまた、珠歌様とホラーを楽しめる事を祈って!