mochiko様
MH祭でのデビューは今年。MPLにて初の作品投稿を
された。登場人物の心理を緻密に描き出し、しっとりとし
た雰囲気が特徴。今回は四期鬼太郎で仄暗くおぞましい
世界を描いてくださった。
秋霖
ざぁざぁと雨が降っている。アスファルトに叩きつけられた滴は跳ね返り、あたしの靴下を汚していった。漂う空気はひんやりとして、じめっとして、重い。
こんな日は早く家に帰って温かいものでも飲むに限る。ぶるりと身を震わせたあたしはお気に入りの真っ赤な傘を差し、混みあう人の波へと飛び込んだ。
歩くたびにぐしょぐしょと靴の中で不快な水音が鳴っている。そこまで酷い雨ではないのにどうしてだろう、とあたしは眉間に皺を寄せながら足元を見た。
もしかすると知らない内に水溜りへ足を突っ込んだのかもしれない。それか一時的に土砂降りになったとか。どうしてだろう、記憶がとても曖昧になっている。
そうして暫くの間は考え込みながら足元を眺め続けていたあたしだったけれど、やがて考えるのがとても面倒になってしまった。なってしまったものは仕方ない。
家に帰ったらありったけの新聞紙を靴の中にねじ込もう。そうすれば明日には渇くかもしれないし、と視線を足元から上へ向けた。家までの距離はまだ遠い。
ばたばたと雨粒が傘を叩き続けている。真っ赤な傘の向こう側には暗い灰色の雲が延々と続いていた。こんなにも暗い空を見るのは初めてかもしれない。
もう少し日が傾いたら真っ黒になるんだろうな、とあたしはぼんやりと考えていた。そうなる前に家へ帰りたい。小さく吐いた溜息は雨音に掻き消されてしまう。
何か嫌だな。湧き上がってくる不安を胸にとぼとぼと歩き続けるあたしの横をサラリーマンが通り過ぎていった。携帯電話を片手に忙しく足を動かしながら。
商談の話でもしているのかもしれない、と視線だけでその背中を追う。動いている口が何を言っているかは聞こえなかった。
(………こんなにも近くを通ったのに、聞こえなかった?)
いくら雨音が五月蝿いからとはいえ、何も聞こえないのは妙だ。もしも傘を打つ雨音が五月蝿いというのなら、自然と電話をする声も大きくなるはず。
それが一切聞こえなかったのだ。ぞっと寒気があたしの全身を駆け抜ける。そんなまさかこんなこと有り得ない、と口にしながらもあたしは周囲を見回した。
コンビニの軒先で会話する女子高生たちも、談笑しながら通り過ぎる若い男たちも、口は動いているのに声が聞こえないのだ。聞こえてくるのは雨音ばかり。
それどころか行き交う人たちがあたしの存在に気付いていないかのような態度を取っていることに、ふと気付く。近付いても話しかけても反応が返ってこない。
「なに、これ、どうして、どうしてよ……っ!」
芽生えた不安がはちきれんばかりに胸の中で膨らんでいく。叫びだしたくなる衝動を振り切るかのようにあたしは走り出した。これは夢だ、きっと夢に違いない。
ばしゃばしゃと水の跳ねる音がする。靴が濡れるだとか、靴下が汚れるだとか、そんなことは一切気にならなかった。早くこの悪夢から抜け出してしまいたい。
その一心であたしは走り続けた。だのに行き交う人たちはこちらを見向きもしない。まるであたしの存在がそこにないかのような態度に不安は更に膨れ上がる。
お願い夢なら醒めて。縋る思いで念じ続けるあたしの目の前に現れたのは、カッパを着た小さな子ども。このまま走り続けたら蹴り飛ばしてしまうだろう。
とはいえ全力疾走を急に止められるわけもなく、あたしはそのまま子どもへと突っ込んでいった。あと1m、30cm、10cm、駄目だ、もうぶつかる。
「気にせずとも、君はその子にぶつからないよ。」
凛とした声が背後から飛んでくる。初めて聞いた自分以外の声に驚いたあたしは足をもつれさせ、その場に倒れこんだ。お気に入りの傘が転がっていく。
暫くは呆然としていたけれど、先ほどの声の正体が知りたくて、背後を振り返った。ざぁざぁと雨の降る中、傘も差さずに突っ立っていたのは、男の子。
今時なんて格好をしているんだ、と思うほど古めかしい格好をしたその子は、薄く笑みを浮かべながら近付いてくる。
「やっと見つけた。教えてもらった場所にいなかったから、探すのに苦労したよ。」
「あ、あんた、誰?何か知ってるの?」
「何かって、あぁ、そういうことか。」
得体の知れない男の子にあたしは鋭い視線を送る。すると彼はさも面倒臭そうな顔をして頭を掻いた。まるであたしが問題児みたいな反応じゃないか。
それまで不安だったものが苛立ちに変わる。このわけのわからない状態から抜け出したいとは思っていたけれど、こんなクソガキに教えてもらうのは癪だ。
転がっていた真っ赤な傘を拾い、あたしは男の子に背を向けて歩き出す。ここ最近見た夢の中で一番嫌な夢だ。自然と鼻息が荒くなっていく。
「ちょっと待ってよ、何処へ行くの?」
「アンタのいないところよ。ていうか、何でついてくんの?!」
からころと下駄の音があたしの足音に合わせて聞こえてくる。振り返った先には付かず離れずの位置にいる男の子の姿。苛立ちが段々と積み上がっていく。
こうなったら撒いてしまおう、とあたしは歩くスピードを早くした。けれど下駄の音は絶えることなくついてくる。だったらどうする、あぁそうだ、走ってしまえばいい。
わき道へ曲がると同時にあたしは全力で走り出す。一瞬だけ焦ったような下駄の音が聞こえたけれど、すぐに雨音以外の音は聞こえなくなった。
ざまあみろクソガキ、と吐き捨てながらあたしは視線を前へと向けて、息を詰まらせる。あの男の子が目の前に立っていたからだ。凍りついたように足が止まる。
「な、何で、どうしてそこにいるのよ!何であたしを追いかけるのよ!」
「君が逃げるからさ。」
「はぁ?意味わかんない!あたしは追いかける理由を聞いてんのよ?!」
「だから、僕が追いかけるから君が逃げるんじゃなくて、君が逃げるから僕が追いかけざるを得ないんだよ。」
益々意味がわからなる。いや、もしかすると適当なこと言って誤魔化そうとしているのかもしれない。あたしはじりっと固まっていた足を後ろへと動かした。
するとそれまで佇んでいた男の子がすっと目を細めて、あたしの足元を指差す。思わずつられて視線を足元に向けた。そこにあるのは汚れた革靴だけ。
何もないじゃない、と非難の視線を向ける。けれど男の子は真面目な面持ちのままであたしにこう言い放った。
「君の影は何処へ行ったんだい?」
「影?何訳のわからない、こと、え?」
男の子の足元には影がある。それなのに、あたしの足元には影がない。それまで頭に上っていた血が一瞬にして氷のように冷たくなっていくのを感じた。
恐怖のあまりうまく呼吸が出来なくなる。それでも頭のどこかでは「これは夢だから大丈夫」と思っている自分がいた。確証なんてどこにもなかったけれど。
「早く気付いてしまわないと、手遅れになってしまう。だから早く思い出しておくれよ。」
「何を、何を思い出せっていうのよ!あたしは思い出すことなんて何もないわ!」
「そんなはずはない。君は自分に何が起こったかよくわかっているはずだ。」
「あたしに、起こった、こと?」
ずきん、と頭が痛み出す。そこで初めてあたしは何か大切なことを忘れているのだと気付いた。けれども、その大切な何かがさっぱりわからなくて、苛立つ。
思い出したい、でも思い出してはいけない。そんな思いがあたしの心の中でぐるぐると渦巻いていく中、からころと下駄を鳴らしながら近付いてくる彼は、言う。
「夢から醒める時間だ。」
どろり、と男の子が溶けていく。まるで蝋燭のようにどろどろと溶けてしまった彼はアスファルトの中へと消えてしまった。恐怖のあまりその場にへたり込んでしまう。
引きつってしまった喉のせいでうまく空気を吸い込めない。どうしていいかわからず、持っていた傘を縋るように握り締めた、と同時にその傘がぐにゃりと歪んだ。
お気に入りの真っ赤な傘が徐々に濃い灰色へと色を変える。そうして先ほどの男の子のようにどろどろと、まるで蝋燭のように溶けてしまった。
「い、やだ、いやだ嫌だ嫌だ嫌だ!!!」
我慢できなくなって叫んでみたけれど、傘は遂にアスファルトの中へ消えてしまった。それだけじゃない。行き交っていた人たちも立ち並ぶビルも、溶けていく。
お願い助けて、とその場にうずくまって、あたしは誰かに救いの手を求めた。その時だった、ふと頭の中を過ぎっていった光景が、あたしの涙を引っ込める。
(あぁ、そうだ、あたしは。)
どくりとアスファルトが波を打つ。まるで沼のようにあたしの体を飲み込んでいったけれど、不思議と恐怖はなかった。思い出した、思い出してしまったからだ。
どろどろと形を無くしていく見慣れた世界が黒く染まる。けれどその黒は冷たいものではなくて、仄かに明るいような、どこか温かみのある色の様に思えた。
ざぁざぁと雨が降っている。黒衣に身を包んだ人たちがすすり泣きながら、とある一人の死を悼んでいた。雨の中の交通事故で亡くなったらしい、少女の死を。
そんな人込みを遠く離れた場所からぼんやりと眺めていた鬼太郎は、小さな溜息を吐く。やはり人間相手にことを進ませるのはあまり得意ではないらしい。
自分の不得手をまざまざと思い知った。
「気を落とすでない。お前のおかげであの子は無事に逝けたのじゃろう?」
「まぁ、そうですけど、後味はよくないですよ。」
自分の死を受け入れられず彷徨っていた少女。悪霊になる、という一歩手前で真実に気付いた彼女は、無事に死神の元へと逝けたようだ。
今回は最悪の事態に陥ることもなかったのでよかった、が、次はどうなるかわからない。やはり二つ返事で受け入れるんじゃなかったと鬼太郎は溜息を吐く。
彷徨える魂の先導なんて、僕の手に負える仕事じゃあ、ない。
「そもそも死神の手が足りないからって僕に助けを求めるのはおかしいと思いませんか?次は絶対断りますよ。」
「閻魔大王様からの依頼であってもか?」
「そ、れは、拒否権がないじゃないですか。」
「それだけ地獄も大変ということじゃ。しかし地獄もぼらんてぃあが必要になってきたとはのぅ。」
呑気な目玉親父の言葉に鬼太郎はまた溜息を吐く。世知辛い世の中になったものだ、という言葉が、今日ほど身に染みたことはないだろう。
Fin.
【秋霖(しゅうりん)】
※秋霖は9月初旬から10月初旬にかけて降る細い地雨のことで、秋雨の別称になります。
今回mochiko様にはホラーらしい色を提供させて頂いたのですが、その“らしい”色をありきたりなホラーで終わらせず! 最後まで人を惹き付けるようなすばらしい作品に仕上げてくださって未だに感動の嵐です!///
mochiko様、素敵な作品を有り難うございました!
このオチがまた何とも言えず鬼太郎らしいんだよな~……///
蝋色からイメージされるほの暗さが雨の情景と重なってひきつけられます。
蝋色―蝋燭、は、成程と膝を叩きました。
有難うございました。
そういう雨降りの恐怖が、すごくよく伝わってきました。
「あたし」の心の移ろいと、不安でヒステリックになっていく様が、じんわりと神経を引っ掻いてくれます。
鬼太郎には気の毒でしたが(笑)、テーマ色にとても似合う怪異譚、ありがとうございました。
最後のどろりと溶けていく世界と少女が、ゾクッとしました。怖かったです。
最初にお題を頂いたときは「蝋色って何だ?」とサーチを走りました。
中々難しい色だな、と思いましたが、何とかご期待に添えられるよう頭捻りきりました。
でもそのおかげで少しスキルアップできたような気がします!
今回は貴重な体験をありがとうございました!
残りも僅かとなったMH祭りですが、どうぞ頑張ってください!
バッドエンドにするのは憚られるような気がして、ちょっと無理矢理にコメディエンドにしてしまいました。
ホラーらしさがなくなりそうだったんですが、鬼太郎らしいと言っていただけてよかったです。
あと蝋色→蝋燭も短絡的や過ぎないかとは思いましたが、大丈夫そうでよかったです。
こちらこそ、読んでいただいてありがとうございました!