矢月 水様
'08年「蝶々燦々」でMH祭デビュー。'08年「陽炎」、
'09「人形の家」など臨場感と、登場人物それぞれの人
間性に魅力溢れるストーリーが特徴的である。今回も
鬼太郎の魅力を存分に引き出した、すばらしいホラー
作品を提供してくださった。
Evergreen
~若草色(わかくさいろ)~
苦手な方はご注意ください
彼女は「助けて」とつぶやいた。
――しかし扉を閉める手は、小揺るぎもしなかった。
薄っぺらな月が浮いている。汚れた硝子の天井に半端に透ける夜空は煙り、しかしあちこち砕けたその隙間から、冷たい夜風を呼び込んでいた。
(……もう秋だな)
彼はしみじみとそう感じ、自分の周囲を彩るものに、ため息を吐きたくなった。
萌えゆらぐ、みずみずしいばかりの新緑。翡翠色の葉は泉のごとく――否、いっそ洪水のように、彼の華奢な身体の全てに絡み、埋め尽くしている。
「やれやれ……」
彼は細くつぶやくと、自分の指をかざしてみた。なんともみっともないことに、中指と薬指の、第二関節から先が欠けている。あふれる血の中央にぽっきりと立つのは、神経を纏いつかせた骨だった。
ごりごりという音は、今、足元から響いてきている。さっきは脇腹に喰いついていたものを、随分と散逸なことだ。
細くつぶやいた声にも、かなりの濁りが混じっていた。ひゅうひゅうと厭な音も同時にしたので、放っておけばそのうち声帯もつぶれるだろう。
――頃合いか、と彼は思った。なんとなし、抵抗する気も失せたので、好きなようにさせていたのだが、さすがに全身まで呉れてやるつもりは毛頭ない。
「……おい」
今度の声は、しわがれた老人のようだった。彼はコホコホと数度の咳を繰り返したのち、あちこちの関節や、はみ出た臓腑、噛み破られた肉片やらを揺らめかせつつ半身を起こす。
それはさながら、壊れた操り人形が、無理に操り手に引っ張りあげられているかのような、奇妙な動作だ。
すでに四割方は喰い尽くしているはずの獲物が平然と身を起こしたのに、相手の方はひどく驚いたらしかった。
と言うより、怯えたと言っていい。それは彼から素早い動きで距離を取り、次いでかたかたと身を震わせると、小さく鳴いた。
かさかさと、音がする。
「おまえが僕を喰いたいのは、主の仇を打ちたいからか」
問いかけではない。それは確認だった。
血を滴らせた手が伸びて、相手の額を撫でようとする。かさり、と撫でてやった時には、うすく煙る紅色をまといつかせ、指はすっかり元通りになっていた。
「僕は劇薬みたいなものだ。おまえ程度のものが喰えば、腹痛どころでは済まないよ」
彼はやんわりとたしなめたのだが、それはウウウ、短く唸った。不満の響きだ。
「どうしても諦めないのか」
仕方ないな、と彼はささやきながら、それの顎を包むようにしてさする。するとそれの身体のあちこちから紅色の煙が立ち昇って来て、彼の皮膚へと染み込んでいった。
彼は血の色の霧を全身で浴びながら、その狭い硝子の部屋の全部を見渡す。一際こんもりと、威勢良く繁っている常緑に眼を遣ると、今度はその眼を軽く伏せた。
伏せた眼は、たったひとつだ。
「……無理もないか」
彼は小さく言うと、それまでの無表情をほんの少し緩和させ、ひっそりと微笑んだ。
「身体はやれないがね。……気が向いた。手伝ってやる」
そしてすっきりと立ち上がった時には、その身には傷痕ひとつ、着衣の乱れ一つとてない。
背後から、獣の生臭い息が追ってくる。振り払っても振り払っても、払いきれない。追いすがられるたび、身体には噛み裂かれた傷だけが増えてゆく。
(なんでだ)
ヒトマロは思った。すでに彼の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
テレビやゲーム、映画などで、こんなシーンは定番である。視聴者としてそれを見ている立場なら、彼はきっと「つまんね」と吐き捨て、さっさと番組を切り替えていたことだろう。
けれどこれはテレビではない。ゲームではない。流行りの和製ホラーでもない。
現実だ。たったそれだけで、使い古された搾りかすみたいな恐怖シーンに、脳が痺れたようになる。
思考が麻痺する。逃げるのに精いっぱいな身体は悲鳴を上げ続け、脳はこの危機を回避する方策を、検討することさえできない。ただぐるぐると、思考の堂々巡りを繰り返す。それだけだ。
(なんで、こうなった)
なんで今、オレはこんなことになっている。他の連中はどうしたんだ。キノやヤカモチ、アカヒトにナリヒラ。一緒に逃げていたはずなのに。
……緑色の犬が出るとかいう話だった。ホラーと言えばそうだろうが、どちらかと言えば幼稚な都市伝説の類だ。小学生の怪談じみた。
それで良かった。彼らの集まる理由は、別段肝試しに限定されてはいない。ネットで知り合った、お互い本名もその出身地も、知らないような間柄だ。
共通項はほぼ同年代だということ、呼び合うのはハンドル・ネーム。目的は、何か面白いことをすること。日頃の憂さを忘れ、パーっと遊ぶ、それだけのこと。
そのために、互いの本来の姿を知らずに付き合えるという、ネット特有の関係は便利であった。相手の顔も容姿も分かっているのに、その社会の枠組みに属する立場は全く知らない。気楽である。
はじめは、日常出来ないスリルを求め、少し性質の悪い遊びをするくらいなものだった。
深夜人気のない公園に集まって、馬鹿騒ぎをする。――例えば、季節外れの花火を何発も打ち上げる。ついでに酒に酔い、奇声を張り上げたり、公共物に品のない落書きをしたりする。
警官らしき姿があれば、蜘蛛の子を散らすようにして逃げだせば、それで済んだ。彼らも御用繁多の身だ。花火程度で、追うのが難しそうな獲物には手を出さない。
が、その公園に棲みつく定住者となると、そういうわけにもいかなかった。彼らも警察とくれば首をすくめる手合いではあるものの、公園と言えばこの種の人々にとってはひとつの家だ。あるいは小さな共同体そのものだ。
彼らの内、一人の襟首を引っ掴んだのは、そういう公園の定住者――いわゆる浮浪者だった。うるさい、俺たちの公園を荒らすんじゃない。ガキは家に帰って大人しく寝ろ。
彼らはけして、それぞれの場所に戻れば、素行の悪い者たちではない。それどころか、優等生の部類に入った。
しかし、今の彼らは社会性と言う仮面を剥いだ、剥き出しの人間である。慣れない酒が大量に入ったせいで、いつもよりぐんと気が大きくもなっていた。
――離せよ、ジジイ!
そう言って、仲間の襟首をつかむ浮浪者に殴りかかったのは、ナリヒラだったかアカヒトだったか。捕まっていたのは、キノだったかヤカモチだったか。
それすらもう覚えていない。そもそもあの頃は知り合ったばかりで日も浅く、適当に和歌の三十六歌仙からつけた互いの呼び名など、まともに呑みこめてもいなかった。
とにかく、ムカついた。とっくに自分はドロップアウト組で、人生の惨めな敗残者にすぎない浮浪者風情が、なにが「俺たちの」公園、だ。おまえらのものなんて、その薄汚い身体一つしかないだろうが。
オレたちは毎日、退屈なだけの暗記作業――大人が勉強と呼んでいるものに精を出し、馬鹿な教師や低脳な親に媚びへつらって、それでも懸命に生きているのに。
働きもせず、日がな一日ごろごろしているばかりのクズが、人間様に向かって大層な口を利くんじゃねェよ!
……などと、目前の浮浪者に対する以外の憤りも多分に織り交ぜ、その熱に酔い狂って、思う様、殴りつけ、蹴りつけた。仕舞いには、公園のベンチまで持ち出して来て、ひくひくと痙攣を始めたその頭上に打ちおろすまでやった。
――動かなくなって当然だった。それで、初めて蒼褪めた。
彼らにはそれぞれ、帰るべき場所がある。そこでは常に、きれいな仮面をつけていることのみが要求される。でなければ、彼らはその居るべき何処かを失うからだ。
自分たちをその窮屈な場所に押しこめている要因として、親を、教師を、社会という秩序そのものを憎み、斜に構えているように見せてはいても、その実その場に一番固執しているのは、他ならぬ彼らである。
周囲の大人たちの示す正しい道とやらに反発を覚えながらも、その大人から受けた影響浅からぬ若者たちには、反面、それは輝く成功の道でもあった。従うのは嫌でも、降りるのは怖い。
青くなって、若者たちは逃げだした。文字通りに四散し、翌日ネットニュースの、あるいは新聞の片隅で、その浮浪者の死を知って震えあがった。
彼らの恐れたのは、薄っぺらな苛立ちと酔いに任せて行った、自らの愚挙などではない。そもそも愚挙とも思っていない。
ただ事件が明るみに出ることにより、現在の「優等生」の地位から底の底にまで、転落すること。それをこそ恐れたのである。
……しかし、件の事件は、いつまで経っても進展の気配すら見せなかった。当然、彼らに捜査の手など、及びようはずもない。
彼らは深く安堵した。よく考えてみれば、自分たちのしたことは公園に巣食う害虫を、一匹削除した程度のことだ。役所の連中も警察だって、内心感謝しているぐらいかもしれない。死んだところで、泣く家族などいる連中でもなかろうし。
――同時に気づいた。自分たちは、お互いの本当の名前も、住む場所も、携帯の番号すら分かっていない。例え何をしたとしても、この繋がりさえ切れたなら、あとにはなんのしがらみも残さないし、残せない。
何かして――……もしも仲間の誰かが捕まったとしても、そいつは共犯者の名前を挙げることすら出来ないのだ。
その点、彼らは徹底していた。メールアドレスの交換さえしていない。万一追及の手が及ぶことがあったところで、その前にネット自体を切ってしまえば済む話だ。
それらははじめ、あくまで軽い関係を保持するための決めごとだった。
だが……そうだ。これなら、彼らの間に裏切りは存在しなくなる。裏切ろうにも、裏切りようがないのだから。
誰をもまともに信じたことのない若者たちの意識下に、この事実は強固な共通認識を伴って根を降ろした。
……すなわち。
自分たちほど、最適な共犯関係もないものだと。
それから彼らの遊びは、徐々に節度を失っていった。
とは言え、そう派手な真似をしてきたわけではない。元が優等生の少年らは、自分たちの世界と同様、不良には不良の本物がいること、出過ぎればそういった連中に「潰される」こと――出る杭はいつだって打たれるものであることを、よく承知していたからだ。
だから大概は、集まってもせいぜいが馬鹿騒ぎか、普通の若者たちらしく、カラオケやクラブで遊ぶ程度で済ませた。それに飽きてくると、メンバー内の誰かの発案で、別の遊びを楽しむわけだ。性質が悪いのは、そういう遊びに限定された。
その、「遊び」……様々あるが、最高に興奮するのは、やはり「狩り」だ。
対象は、ひ弱い存在のものが望ましい。はじめは犬や猫。散々に追いかけては捕まえ、なぶって殺した。
次には子ども。だが、さすがに人間を殺すことはしなかった。通り過ぎざま、その小さな柔らかい頭を思い切りひっぱたいてやる。中にはそれだけで、派手に転んでしまう子もいた。
背後で破裂するような泣き声。甘えてんじゃねェよ、とうそぶく。泣きゃァ何でも許されると思いやがって……世の中舐めてんじゃねェぞォ!
――げらげら。
遊ぶ場所はいつもそのたびごとに変え、ひとつの地区に集中させるようなことはしなかったから、誰に追われたこともない。集まる場所はランダムに、それぞれが意識的に自分の住所の近くは避けた。それもひとえに保身のためだ。
子どもの次は、やっぱ……女だよな。
欲望をむき出しにした、若い雄の至る結論などいつの時代もひとつでしかない。人気のない、夜の道。人家さえまばらなそんな場所を、どろどろした欲の熱を持て余しつつうろついていたら……とぼとぼやって来た獲物が一人。喰いつかない手はないだろう。
線の細い少女だった。犬を連れていたが、情けないくらいにチビッこい小型犬だ。吠えつかれたところで怖くもない。
案の定、暗がりから姿を見せただけで、少女も犬も、棒を呑んだように立ち尽くした。のっそりと一歩、踏み出すだけで逃げてしまうのだから笑わせる。自意識過剰だッつーの。
もっとも、追うけど? そんで色々しちゃうけど?
囃し立てながら、悲鳴も上げられずに逃げ惑う少女を追った。暗い方へと追い込んでいたつもりだったが、間抜けにもほどがある。少女が逃げ込んだのは、朽ちかけた廃屋だった。
もう人が住まなくなってから、どれほどが経つのだろう。住宅街の中心からも外れた淋しい一画で、近くに川が流れているせいか、辺りじゅうが草だらけだ。家らしい家と言えば、なんとかそう呼んでもいいかと思えるくらいの、この廃屋のみしかない。
蝶番の外れて傾いた門扉を蹴倒し、人の踏み均したあとのある、庭の中央を突っ切って奥へと進んだ。庭の奥には、硝子張りの――家に負けず劣らず朽ちかけているが、なんとか原形を保っている温室があった。
月の明るい晩だった。だから、外灯ひとつ無い空家の中でも見通せた。
曇って汚れきった硝子の温室の中に、少女はいた。恐怖に強張った顔で、しかし視線をそらすことも出来ずにこちらを見ていた。
細い指が扉の引き手に、縋るように絡まっていた。彼らを入れまいとしているのだ。
――腹の底から愉快だった。少女の無力さが痛快だった。この圧倒的な支配感。
彼らは彼女の無駄な努力を嘲り、集団で扉を引き剥がしにかかった。本当は集団の力など必要なく、誰か一人の握力だけで十分だったが、わざとそうした。少女の恐怖に引き攣る顔を、もっと見たいと思ったからだ。
格別美しくも可愛くもない少女だった。彼らはそれも罵倒した。やたら細くて、胸もない。
脆い扉をあっさり引き開け、健気にも向かってきた小型犬を踏みつぶした。やめてやめてと犬の名を呼びながら暴れる少女を羽交い絞めにし、小さな犬の身体を好きなだけ殴って、蹴った。暖かく柔らかい物質が、冷たく硬い肉になるまで、いくらもかからなかったと思う。
動かなくなった犬の死体を、野放図に伸びていた緑の草むら――おそらくは観葉植物のなれの果ての中に放り捨て、泣き叫ぶ少女の口元を抑え込むようにして、全員で圧し掛かっていった。
――喜べよ、大モテじゃんか。おまえみたいなブスが。
こんなことでもなければさ。一生処女かもしんねーだろォ!?
細い足も薄い胸も、やたらに色ばかり白い顔も、異性としては不満だったが、嗜虐心には心底震えた。こんな興奮は、そうそうあるものではない。
全員で満足し、立ち去る時になっても少女は、緑に埋もれたまま、身動きひとつしなかった。ただ彼らを、真ん丸に見開かれた、それこそ硝子のような目で見つめ、まるで空気を求める金魚のように、口をハクハクと開閉させた。
声は聞こえなかったが、もしかして「助けて」とでも言ったかもしれない。
……あいつ、死ぬんじゃね? と、ナリヒラが言った。もう少女の姿が見えなくなって、だいぶん経ってのことだった。
――やたら細ッこかったしさ。女だっつッたって、あの非力さはねーべ。
犬もなあ、犬のくせに、弱すぎー。野生はどうした、と、他の奴が混ぜっ返して、ゲラゲラ笑う。
誰もがあの少女は、身体のどこかが悪かったのではないかと考えていた。おまけに去り際の、あの様子。下手したら、死んだかもしれないな、と。
――けれども別に、それだけだった。要は自分たちがそうしたのだと、分からなければそれでいいのだ。第一、あの少女の名前すら、彼らは知らない。
……バレなければ、それでいいのだ。バレなければ。
誰にも知られないならそれは、何をやってもいないのと同じことだ。分かりさえしなければ……それなら。
――何をやっても、別にいいのだ。
「緑の犬」の話をヒトマロがキャッチしてきたのは、そんな遊びも散々やり尽くして、少々飽きが出始めた頃だった。
そろそろこの遊びもお仕舞いだ。これから表の顔も忙しくなるし、それを越えたら卒業も間近。おまけに十分満足できた。
これだけ悪さをやったのだから、当面は大人しい優等生の顔のままでも、不満を覚えることはないだろう。引き際を見誤れば、ボロが出る。そんなのは馬鹿のすることだ。
楽しいが後ろ暗い思い出にはこれできっちり蓋をして、あとは真っ当な道に戻るのがいい。きっと数年後には、あの頃はバカをやったなと、それだけの記憶しか残らない。
自分たちの繋がりも、これきり。遊びをやめたら、二度と会わない。それがお互いのためになる。もし偶然、どこかですれ違うことがあったとしても、他人のふりをしているべきだ。
……その必要すらないかもしれない。会わなくなれば自分たちは、相手のことなどすぐに忘れてしまうだろうから。
そういう心境の彼らに、子どもっぽい「緑の犬」はお誂え向きだった。
夜遅く、人気のない界隈を歩いていると、一匹の大きな犬が町角からやってくる。――なんとその犬は、全身真緑色をしているそうな。
ちょっと聞いただけでも失笑ものの、安っぽい噂話だ。だがだからこそ、遊びの締めくくりには相応しいと言えた。いいじゃないか、のんびりしてて。
もう狩りをするつもりはなかったので、誰の顔も穏やかだった。チューハイの缶を片手にほろ酔い気分で、ネットで拾った噂話の現場へと、わやわや騒ぎながらみんなで向かった……
それでお仕舞い。明日からはもう、真面目な学生一筋だ。
そのはずだった、の、に。
噂どおりに大型犬らしき影が現れた時。自分たちは爆笑した。何の証拠になるか分からないから写メは禁止だと言っていたのに、忘れて取り出した奴もいたくらいだ。
おい、そいつはヤバいって。
いいじゃんか、これで最後だ。人間は撮らねえよ――ホラ、緑の犬の証拠写真が……
みんな笑っていた。月明りに照らされた犬が、本当に緑色をしていた時にも、そうだった。自分たちのような悪ふざけ好きの誰かが、カラースプレーでも吹きつけたかと思ったのだ。
――ヒッデー。虐待じゃん?
こーいうのって、どこに電話すンだっけ。動物愛護キョーカイとか、そーいうの?
かっわいそー。
そう言いながら、手を差し出したのは、確かアカヒトだったと思う。適当に犬を小突いてやるつもりの、言葉とは裏腹にぞんざいな手つきだった。
手を差し出した瞬間に、喰いつかれていた。悲鳴を上げて振り払った時には、指が数本欠けていた。
白い切り口から、赤い血がみるみる湧いて――……
「う……うわぁぁあぁっ!?」
ビビった。逃げた。誰かが転ぶ音がした。犬の獰猛な唸り声と、何かの噛み砕かれる鈍い音。ぎゅう、と馬鹿みたいな声を上げたのは……あんなのが断末魔なのかもしかして。
確かめない。そんな気はない。義理もない。とにかく分かるのは、ヤバいってことだけ。
だから逃げる、逃げる逃げる――……
誰が誰だか確認するだけの余裕はなかったが(アカヒトはもう、いなかったかもしれない)、それでも逃げ出した時には、他の連中も一緒だったはずだった。
だが、それもいつのまにか消えてゆく。はっきりとは分からない。一度に一人ずつだったかもわからない。
でも、ずるりと靴底の滑る音がし、嫌だぁ、と哀れっぽい声がし、ついで悲鳴がとどろき。走りながら上体が、がくんとさがった誰か。助けを求めて縋られそうになった腕を、肩をねじって弾き飛ばした。
それで思わず、尻餅をついた相手を振り返ったが、やっぱり誰だかわからない。首から先が見えないので。首のあった場所からは、噴水みたいに血がぴゅうぴゅうと噴いていたので。
「ぃ……いっ、いっいっ……」
自分でも何が言いたいのだかわからない。でも多分、ただの嗚咽だ。怖くて涙が止まらない。鼻水まで出てくる。背筋を冷たい汗が、滝のように流れて落ちる。
生臭い息。重たい足音。なのに素早い。間に唸り声が混じる。かさかさと、妙に乾いた音がする。
もうオレだけか。他の奴はみんなヤられちまったのか。
(もう足止めになってくれんの、いねえのかよッ!?)
声にならない声で叫ぶ。走っても走っても、人家などない。人出のあるところへ戻るために、引き返すことも出来ない。振り返れば、少しでも足を止めれば、そこで終わりだ。
(どこか……)
どこかないか、どこか。どこでもいい、身を隠したい。この怪物から一時でいい。逃れて――足を止めたい。休みたい。心臓が、破裂しそうだ。
すると、茫漠と秋のススキが群がる先に、小さな家の影が映った。ヒトマロは駆けた。一刻も早く、そこへ身を沈めたかった。
見覚えがあると気付いたのは、門扉を開き、廃屋のくせにきっちり開かない家のドアに絶望し、泣き声を上げながら視線を彷徨わせた時。
月明りの中、影絵のような硝子の温室を見出して――ようやく。
あれ、とだけ、一瞬思った。でも記憶が明確な像を結ぶ前に、犬の唸り声が耳朶を掠った。とたん、ヒトマロはパニックになる。
「じょ、冗談じゃねェよう!」
情けない悲鳴を上げて、一も二もない。温室に向かって駆ける。こんなところに逃げ込んでも、袋のねずみになるだけだ。しかしそんな理性も働かなかった。
温室の扉は錆びてはいたが、思いきり押すと動いてくれた。そのまま転がるようにして、中に飛び込む。そしてすぐさま開けた扉に取り縋り、その合わせをきつく閉じた。
月が白々と、崩れた家を灼いている。秋の夜なのに、虫の声はほんの少しも聞こえない。代わりに大きく近くなってくるのは、獰猛な犬の唸り声だ。
ひっひっ、と、もはや悲鳴だか嗚咽だかわからない声を発しながら、ヒトマロはただ、扉を閉める手に力を込めた。拳の腱が白く浮き立つ。
のっそりと、緑の犬が現れた。土佐犬くらいの大きさだ。体毛が長いせいで、ゴールデンレトリーバーのようにも見える。毛の色はくっきりと緑だが。
ヒトマロはもう、息をするのも辛い。緑の犬はところどころに、先刻にはなかった色をまとっていた。鮮血の赤、肉塊のピンク。ものすごく悪趣味な表現をするならば、さまで緑の草原に、とりどりの花が咲いたかのよう。
犬は唸り声を上げながら、真っ直ぐにこちらへ来る。緑の毛の隙間から、爛々と光るあの赤は、血ではなくて目の色だ。口元からぽたぽたと垂れている、あの色は血だろうが。
「くっ……来るなっ! 来るなよォ!!」
喉を振り絞って叫びながら、扉の引き手をきつくきつく、握りしめた。あちこち隙間だらけの温室なのに。わざわざ扉を破らなくたって、入り口はそこら中に開いているのに。
(……バカじゃないの?)
ふと、女の声を聞いた気がした。言葉の意味などどうでも良かった。ただ、人がいた。その事実に飛びつくように振り返る。
――秋だった。外のススキはとっくに銀色に色づいていた。辺りの草木も、大概が色の抜け切ったセピア色だ。
なのに、その一画はこんもりと緑。穴だらけの温室に、そんな効果はないだろう。
そのありえなさを前に、ようやく記憶が像を結ぶ。涙でぐしゃぐしゃになった少女の横顔。激しく上下していた白い胸。言葉にならなかった……
――助けて。
繁茂する若草色の中に、真っ白な骨を見た。そう思った直後、耳が破滅の音を聞いた。
外から破られ散乱する硝子に、月明かりが宿っている。そこへ、ぴしぴしと小さな赤い粒がいくつも飛んで、付着した。
ごりごり、と骨を噛む音がする。激しい痛みに絶叫するが、その声すらもう枯れている。痛い。痛い痛い。怖い。
倒れた時に硝子で深く傷つけたのか、腰から下の自由が全く効かなくなっていた。だから、投げ出した両足は、格好の餌食だ。ぴくりとも動かないのだから、放置された肉も同然というものだろう。
錆を擦ったような声で泣きながら、ヒトマロは葉の合間から見えるそれから目をそらすことが出来ない。玉露弾く若々しいつる草にゆったりと抱かれているのは、華奢な骨。真っ白な、頭蓋骨。
ぽっかりと洞の開いた眼の痕跡が、こちらを見ている。唇も歯茎も失った歯の羅列が、まるで哄笑しているかのように、ぱっくり二つに割れていた。
バカじゃないの、と、かつての少女の骨が言う。こんなところに逃げ込んで。捕まるに決まっているでしょ。――かつて、ヒトマロたちが嗤って口にした科白。
どれだけ喚いたか分からない。赦しを乞うたか分からない。しかし咀嚼の音は間断なく続き、かさこそと鳴る乾いた音も、同じようなリズムを刻む。
「……あれ。まだ終わっていなかったのか」
じゃりじゃりと硝子を踏む音がして、今度は明らかな人声だった。大人でも子どもでもない響き。少年の声だ。
助けて、と、ヒトマロはささやいた。心ではむろん絶叫していたが、せいぜい出せる声はすでに、そんなものだ。
すると、足音はヒトマロのすぐそばで止まった。霞む視界に映ったのは、裸足の指先。この季節に、しかも時代にそぐわない、古びた下駄を履いている。
見つめてきたのは、片眼だった。月の光を真上から浴びているせいか、長めの髪は銀色にけぶって見える。……助けてくれ。
渾身の力を振り絞って、なんとか動いた指を差し向ける。くるぶしの浮いた青白い足に触れようとしたが、その前に足はすっと彼から遠のいた。
「ぅお……」
待ってくれ、待ってくれ。うめきながら懸命に追った視界の内に、少年の全身が映る。彼の手に提げられているものに、ヒトマロの顔は激しく歪んだ。
「仕方のない奴だな」
少年の手の、黄に黒の横縞の大きな袋。底からは血が染み出、ぼたぼたと緑の葉を打っている。彼は無造作にそれを投げ出すと、少女の骸骨の傍らに腰を降ろした。
その拍子に袋の口がほぐれ、ころころと転がり出でたもの。その全てに見覚えがある。
どれもこれもひどく歪み、中には面影を見出すことさえ難しいほど、破壊し尽くされたものもあったが。
……アカヒト。ナリヒラ。キノ。ヤカモチ。全員の首。
「ぅあぁ、あぁ~……」
「全員ここへ追い込めと教えたろう。なのに捕まえた片端から喰いつくから、回収するのに骨が折れた」
少年のぽっかりとまるい眼は、ヒトマロなどまるで見てはいなかった。彼が話しかけているのは、ヒトマロの身体に喰いついている、緑の犬だ。
……かさこそ。また、妙な音が鳴る。
「おや」
そこで初めて、少年の眼がヒトマロに充てられた。これが眼だと言い切るにはあまりに光のない真っ黒な孔が、ほんのわずかに細められる。
「まだ生きているようだよ。存外としぶといな」
よいしょ、と少年は腰を上げた。それから袋から転げた数個の首を、ぞんざいな仕草で緑の山に放り捨てる。ひゃんひゃん、と唸る以外の声で初めて、犬が鳴いた。
「分かった、分かった。この子とこいつらを一緒にしておくような真似はしないよ」
彼は宥めるようにそう言うと、生い茂る緑に片手を突っ込んだ。そしてまるで芋でも引き抜くように軽々と、少女の遺骨を引き上げる。
幾重にも絡まった草の根がそうさせるのか、少女の骨は互いにばらばらになりもせず、つややかな若草を根ごと絡ませた状態で、全身を露わにした。学校の骨格標本そっくりだった。
「心臓の位置にも気をつけるよ。この彼女の持病のせいで、おまえは家に置いてもらえなかったんだものな」
少年は丁寧に、骨を抱くようにして支え、最前まで仲間の首が詰まっていた袋を軽く一振りする。すると袋は今度は布状に拡がって、少女の骨を覆い隠した。
もういいだろう、と彼は言った。奇妙に甘く、蠱惑的に響く声だ。
「どうせ放っておいてもすぐに死ぬ。これ以上徒らに、業を重ねる真似はよせ」
少年はまだ執拗に、今度はヒトマロの横腹を貪り始めた緑の犬に近づいた。わずかに背をかがめると、その頭頂部にそっと触れる。
……はらはらと緑の毛が抜け落ちたのだと、そう思った。
けれども硝子の破片をこすって地面に舞い落ちたのは、若い葉だ。少女の骨が、被っていたのと同じもの。幾重にも幾重にも重なって、犬の全身を真緑に染めていたもの。
すっかり葉が落ちたあとに現れたのは、小さな犬の骨格だった。小型犬だ。少女が連れていた、あの小生意気な犬と同じくらいの。
「いくら葉っぱでも、それだけ身に纏っていれば重かったろう。僕が力を貸したと言っても、これ以上血を吸い込んだ葉なんか背負い続けていたら、ただの魔物になってしまうぞ」
くうう、と、今度聞こえた声は、小さな室内飼いの犬そのものだった。緑の衣を脱ぎ捨てて、小さな白い骨になった犬は、よろよろとした足取りで少年の足元まで来たところで、力を失くしてへたり込む。
「……よしよし。気は済んだな」
淡白だがその声音には、意外に優しさが込められているようだった。ヒトマロは冷えていく全身に抗い、どろどろと命の温かさが流れてゆく恐怖に怯えながら、少年を見上げた。その声の優しさに、縋りたくて。
しかし少年の眼はもう二度と、ヒトマロを見もしなかった。彼は犬の骨も抱き上げ、少女と一緒に布でくるんで歩きだす。
待て、待ってくれ。お願いだ。
必死で懇願の眼差しをぶつけていると、足が止まった。もう自分の身体はすっかり壊されてぐしゃぐしゃだ。どうせ死ぬなら、今すぐ殺して欲しかった。
少年が何者かなど、どうでもいい。ただ、死ぬまでこんなところに一人きりで放置されるのは……それだけは嫌だ。
しかし彼が立ち止ったのは、ヒトマロの声無き声を察したからではないようだった。布がわずかに持ち上がり、犬の頭蓋骨が見えている。犬が何かを訴えたのだ。
が、少年はそれに対し、首を短く横に振る。
「心臓の弱いこの子が、捨て犬のおまえを飼うため必死で探したこの場所に、執着するのは分かるけど……それがいけない。第一もう、ここにはおまえたちだけじゃないだろう?」
奴らと一緒にいたいのかい、と諭しながら、少年は扉を開く。行ってしまう。ヒトマロは口を開いた。
こんなに懸命になったのは、彼の人生の中で初めてだった。そしてこれが最期になった。あふれる常緑の色が目に染みる……
彼は「助けて」とつぶやいた。
――しかし扉を閉める手は、小揺るぎもしなかった。
了
何なんだよこの緑色の犬!?と言う鬼気迫るシーンから始まり、まさかの展開っ…この、ストーリー展開本当に……パネェ!しか言い表せない自分に相変わらず幻滅ですっ! この清々しい色をどうやってホラーにするのか、と楽しみにしていたのですがっっ…
自分、やはりこの色を矢月様にお願いして本当に良かったですっっ!!!////
こう来るのか~~~~っっと一人であまりのすばらしさに悶絶してしまいました!
今年も本当にすばらしい作品を有り難うございました!
色々とお手数掛けました。
自分ではオーソドックスな恐怖ものになっちゃったかな、と(どう考えても力技だし)思ってたんですが、良かったと言っていただけると、書いてよかったなぁとホントしみじみ…
これからもRDG様の企画には、可能な限り参加させていただきたいです。
ではこれから最終日まで、私も続けて楽しませていただきます。
ラストスパート、ご無理のないよう頑張ってくださいv
読んでいて、「犬怖っ!」からだんだん「人間怖ェェェ!!」になっていきました(笑)
こういう類がまったく架空でもないあたりが余計に…。
ヒトマロの追いかけられ方とか頭とラストの一文とか、
完成された良質なホラーを見ました…ありがとうございます(震
名前も出ない鬼太郎さんのラストの存在感と状況が一番恐ろしく感じました(笑
ふつうにそんなもの持って、しかも道中拾って歩いたかと思うと…地味だけど怖い(ガクガク
楽しかったです、ありがとうございました!
コメント、ありがとうございます…!
犬もアレだけど人もアレな話でした。
初っ端から犬に喰われている鬼太郎だけは、「犬痛い」でいいのかもしれませんが…<怖ェェじゃねえのかよ。
時にはファンタジックなホラーでも書けばいいのに、いっつも変態ばっか出してすみません。
それでもキモイじゃなく怖いと言っていただけて嬉しいです(涙)
鬼太郎はきっと無表情で淡々と死体の始末をつけたんだろうなとは思います。
鴉辺りには手伝わせたかもしれませんが、エゲツない手伝わせ方させたんだろうなあ。
頭と結びの一文だけは、初めから決めて書きだした話です。
良質だとのお言葉、大事にしたいと思います。
ありがとうございました…!